BBS一覧|開設者ホーム |以前のページ|  |最新のページ

 アマトのBBS

タイトルツリー内容ツリー内容新着順
  新規に投稿する
一番下へ。▼
邪馬台国と大和王朝  投稿者:アマト 投稿日:21.2.11 (木) 10:31  〔コメントする〕  削除
 邪馬台国については無数の仮説がありますが、九州の王族の一派が畿内に移住して大和王朝の元になったと考えています。本家は九州に残ったままで、中国と交流を深めます。

九州にあった邪馬台国系の王朝は、崇神天皇の時代に分家の畿内の大和王朝に征討されて無くなり、神武天皇以前の畿内には、饒速日系統の鬼王安日王朝があったと考えています。

これらは記紀に書いてある通りです。

  
RE: 邪馬台国と大和王朝  投稿者:てるてる 投稿日:21.2.12 (金) 22:02  〔コメントする〕  削除
 アマトさんこんばんわ(^_^)ノ
UFOの記事楽しく読ませていただきました
凄い実験して特許まで申請してたなんて、ガチすぎてビックリ
こちとら文系脳なんで電磁気の話はなるほどわからん状態なんですが、アダムスキー型UFOの写真の分析は合点がいってなんかワクワクしてしまいました

短里の件なんですが、先日の引用元のHPを見てもらえれば分かるんですけど、倭人の騙しは朝鮮半島から既に始まっているという推測で、陸路ではなく海路で半島西岸を南下してることから魏の使者の認識の正確さも怪しいし、帯方郡(楽浪郡?うろ覚え)なども半島の住人蜂起で郡の常駐の役人が殺されたりもしていて、当時の漢族の半島支配の脆弱さを指摘されていて、そういった傍証も踏まえられていて、決して可能性の低い説ではないと思います

援軍の件も、日本にしてみたら、不安定な魏領内での交易の便宜をはかって欲しいだけで、わざわざ呉を攻めるような人的物的コストは負いたくないでしょうから、むしろ援軍に行けない言い訳にできるメリットと捉えられないでしょうか?
実際、魏の激に対して奴国との紛争を言い訳にしてますし
この辺も全部ただの受け売りなんですが(^^;一応自分としても完全同意です

邪馬台国=畿内王朝の件は、自分も名前は引き継がれているけど、同一王朝とは考えてないです
件のHPでは名前(読み方)すら邪馬台=ヤマトではないという説を唱えられてますが、梁書など歴代の史書をみんな精査されて、アマトさんと同じように王朝の断絶があるとされていて、記紀の系譜には疑いを持たれてます
ただ王朝の交代劇と畿内説は矛盾しないという説を、縄文遺跡の分布や縄文人のDNA解析成果、東鯷人や越の活動の痕跡などを紐解きながら展開されていて、とにかく根拠にあげるデータ量がハンパなくて、ともかく興味深いとは思います
一度ご覧になってはいかがでしょうか

RE: 邪馬台国と大和王朝  投稿者:アマト 投稿日:21.2.15 (月) 15:32  〔コメントする〕  削除
 てるてる様、読ませていただきました。全部は読んでませんが、、、歴史観は人それぞれなんで、細かく突っ込むとキリがないので短里だけ。高句麗伝を根拠に挙げてますが、魏志倭人伝では次のような超有名な記述があります。

「始度一海千餘里、至對馬國(始めて一海を渡ること千余里で、対馬国に着く。)」
「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。(また南に一海を渡ること千余里、瀚海という名である。一大国に着く。)」
「又渡一海千餘里、至末廬國。(また一海をわたること千余里で末廬国に着く。)」

朝鮮半島 →1000里→ 対馬 →1000里→ 壱岐 →1000里→ 末廬国
対馬は朝鮮半島から見えるわけで、倭人が誤魔化そうとしても無理なわけで、そのサイト主様が、この3つも続く千里を、どう解釈してるのか興味ありますw

ここの千里は、3つとも50km〜80kmぐらいです。でも議論しても結果が出ないのがこういう謎ですので、深追いはしません。私は古文書を恣意的に解釈すると、キリがなくなり謎も深みにハマると思っていますので、アトランティス伝説も倭人伝もそのまま読みます。方角や数字の改変は絶対にしません。わからない事は謎として放置。
あと私の歴史観は、アトランティス実在が前提ですので、かな〜り特殊です。
縄文時代は、超古代文明崩壊後のサバイバル時代とか……(笑)

あと中国の史書に興味があるなら、参照サイトの全文検索に「倭」とか、興味ある言葉を入力して検索するとゾロゾロ出てきます。あとは、根性かな……

参照−>中國哲學書電子化計劃・《漢代之後》相關討論


RE: 邪馬台国と大和王朝  投稿者:てるてる 投稿日:21.2.16 (火) 07:00  〔コメントする〕  削除
 アマトさま、おはようございます
参照リンク、便利なサイトですね、ありがとうございます
さっそくブクマしました
青空サイトやら国会図書館HPやら、ホント便利な世の中になったもんです( ´-`)トオイメ

>対馬は朝鮮半島から見えるわけで
これは単に見えてる島がまさか目的地の対馬だとは思ってなかっただけではないでしょーか
島が見えない沖合まで出てしまえば内陸の人に位置関係なんて分からないでしょうし、江戸時代の廻船でも船乗りの視力は陸の人とは比較にならないほど半端なかったそうです
陸に近いほど危険が多くなるので、できるだけ離れる必要があって、そうなると視力は生死に関わる重要な資質になるのだそうで、幼少から英才教育されないと間に合わなかったらしいです

また埴輪を見てもわかるとおり意外に大きな構造船で、中には屋根の付いたものもあるので、国使を招くような船だし、船室でもてなしてる隙に〜とか、視界の悪い日を選ぶとか、これら現代人が考えつく以上に、海洋航海術のない内陸人を煙に巻く方法はいくらでもあったであろうという解釈をされてたと思います、たぶん

洪水による古代文明崩壊の古代史観は、現状の地質学や古植物学の成果からみて矛盾しない点も多いと思うし、特殊だとは思わないですよ
アフリカ単一起源説すら近年は説得力のある反証も出てきてますし

ところで、サハラの目って何なんでしょうか?
ややっぱ前線基地とかですか?|ョ゚Д゚;))))ドキドキ

RE: 邪馬台国と大和王朝  投稿者:アマト 投稿日:21.2.17 (水) 17:02  〔コメントする〕  削除
 狗邪韓国から対馬まで1千里(400q)だとすると、使者が納得するのに何日で必要でしょうか?
100km以下なら根性で1日で着きますが、400qだと1日で着くのは不自然です。
海峡なんで途中寄港もできません。
半島南端を朝出発して夕方対馬に着いたなら、誰も400kmもあるとは思いません。
対馬海峡で何日もウロウロ?、できません。流されます。
海峡横断は基本休憩なしで突っ切ります。
当時の海路って櫂と帆ですから命がけなんです:-)

RE: 邪馬台国と大和王朝  投稿者:アマト 投稿日:21.10.9 (土) 12:23  〔コメントする〕  削除
 決定的な反論を思いつきましたw
『隋書』倭国伝では、「夷人不知里數、但計以日。」(東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。)とあります。
よって、里(距離)は、倭人に聞いたものではないという説が確定し、そのサイトの倭人が誤魔化して伝えたとう考察は前提から成り立たず破綻します。
ちなみに、サハラの目はただの地形だと思います。

一番上へ▲

 

|以前のページ|  |最新のページ