BBS一覧|開設者ホーム |以前のページ|  |最新のページ

 アマトのBBS

タイトルツリー内容ツリー内容新着順
  新規に投稿する
一番下へ。▼
RE: 邪馬台国について  投稿者:てるてる 投稿日:21.2.11 (木) 03:05  〔コメントする〕  削除
 すいません途中で切れました(汗
【つづき】

様々な角度とデータから論証されていて大筋においては説得力がありますし、相当な文章量(サイト全体だと時代小説何十冊分だよってくらい^^;)で、文章も非常に難解なんですが、きっと管理人さんなら興味を惹かれると思いますので、是非チェックされてみてはいかがでしょうか

あと、邪馬台国には誤記問題があって「臺」と「壹」(→転じて「一」)があるわけですが、多分「壹(トゥ)」が可能性が高いんじゃないかと思います
(詳細はコレttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11144928856の受け売りなんですが^^;)

つまり「ヤマタイ国」ではなく「ヤマトゥ国」で、邪馬台国に関しては大和国の発音をそのまま表音したんだろうなと
このヤマトゥという音は実は沖縄の方言に昭和までは残っていました
沖縄人から本土人のことを指す言葉にヤマトゥンチュという語があるんですが、「大和の衆」が転訛したと思われてたわけですが、こうなってくると逆に転訛したのは日本本土の方で、沖縄の方で古代の発音が無菌パッケージされて残ったんじゃないかと

まぁいずれにせよ、あれだけ壱岐だの対馬だの筑紫だの松浦だの伊都だの球磨?だの出てくる中で、本拠の地名が全く後世に残ってないなんてことは考えてみれば不自然な話です

人口が希薄な古代において海洋民国家の日本は、農耕民族的な領域国家ではなく、海洋民族的な都市国家(交易路の中継港)なわけで、日本各地に同名の地名が点在していて九州にもヤマトの地名はあるわけですが、ヤマトゥ国といっても倭と書いてヤマトと読んでた大和政権のことではございません!ってのも無理があるかなと
ここは上記のHPの解釈とは食い違ってるんですけど

  
RE: 邪馬台国について  投稿者:アマト 投稿日:21.2.11 (木) 09:56  〔コメントする〕  削除
 てるてる様、実は、私も当初は「邪馬台国=機内王朝」説だったのですが、調べていくうちに「邪馬台国=熊本王朝」説に変遷しました。(^^)

理由1.倭の5王が大和王朝歴代天皇に該当しない。
※年記を色々変えて、当て嵌めようとしたのですが無理でした。

理由3.『梁書』倭国伝「齊建元中、除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖即位、進武號征東大將軍。」(斉の建元中(315−316年)、武を持節、督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍に除した。高祖が即位すると、武の号を征東大将軍に進めた。)しかし、『唐会要』倭国・日本国伝では「表仁無綏遠之才。與王爭禮。不宣朝命而還。由是復絶。」(表仁には慎みと遠慮の才覚(外交の才能)がなく、王と礼式で争い、朝命を宣下もせずに帰還した。ここに再び通交が途絶えた。)
※過去に征東大将軍の称号をもらっているのに、些細な礼式で揉めるなんてあり得ません。ここに、王朝断絶が見られます。

理由2.『新唐書』日本伝、「欽明之十一年、直梁承聖元年。次海達。次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。次崇峻。崇峻死、欽明之孫女雄古立。次舒明、次皇極。」(欽明の十一年は、梁の承聖元年(552年)に当たる。次は海達。次は用明、また目多利思比孤といい、隋の開皇末に、初めて中国と通じた。次は崇峻。崇峻か死ぬと、欽明の孫娘の雄古(推古)が立った。次は舒明、次は皇極。)
※次は用明、また目多利思比孤といい、隋の開皇末に、初めて中国と通じた。まあ、初めてだったらしょうがないよねw

一番上へ▲

 

|以前のページ|  |最新のページ