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 アマトのBBS

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邪馬台国について  投稿者:てるてる 投稿日:21.2.11 (木) 03:01  〔コメントする〕  削除
 はじめまして

以前このHPを拝見させて頂いて分析力パネェと驚きつつアトランティスの真相を堪能させて貰ったんですが、ちょっと見ない間に更にコンテンツ増えてますねΣ(゚Д゚)
またちょくちょく来て楽しませてもらおうと思います

ただ邪馬台国の所在地については異論があってコメントさせていただく次第です

倭人の歴史について、なんと旧石器時代から順序立てて綿密かつ学術的に追求されてる論文みたいなHPがあるんですけど、そちらの推測の方が的を射てるかと思います
結論を言うと畿内説なんですが、同じく根拠の一つに高句麗伝を挙げられてまして、
【引用始め】
漢代の1里415mをそれに適用すると、丸都と遼陽の距離は400kmになる。実際の直線距離は260kmだから、山間の曲がった道程を400kmとする事に違和感はない。

日本海沿岸にいた東沃沮は、税として海産物を収めるために荷物を担い、千里の道を高句麗の都に運んだと記されている。こちらも直線距離で200qほどの山道だから、1里は415mだったと考えて良いだろう。拠点間の距離は重要な軍事情報だから、漢の軍が活動した地域では正確に距離を把握し、丸都と遼東の距離は軍の移動距離を示していると考えられる。従って距離情報は直線距離ではなく、旅程としての距離を示していると見做し、1里は415mだったと考える事ができる。
【引用終わり】

と短里説と真逆の解釈を示されてます。

それだと日本列島が海上に出ちゃうじゃん!ってなるんですが、それについては、倭人がわざと嘘を魏の使者に教えたとの説を唱えられてます
そりゃあんな野蛮な連中に「日本列島は大陸からすぐだお♪」なんつったら元寇みたいになるのは目に見えてるし、国防上はむしろホイホイ教える方がどうかしてますよね
実際に当時の中国人が、朝鮮半島と目と鼻の先にある日本列島の位置すらも知らなかったのは魏志倭人伝のデタラメな行程が証明してるわけですし、もっと言えば海洋交易民である倭人のような外洋航海術を持たない、内陸の農耕民であるわけです

「中華と日本にとっての軍事緩衝地帯である半島は広大な大国で、倭人の島はそこから更に遠い絶海の巨大な島で大国である」と誤解させれば、凶暴な漢人も攻め入ろうなんて考えを起こさないだろうと謀って、倭人は国家方針として魏の使者を騙したとの推測
筋は通っています

「倭人の歴史」さんではそれらを検証するのに、様々、本当に
 ・‥…長文のため後半がカットされました。

  
RE: 邪馬台国について  投稿者:てるてる 投稿日:21.2.11 (木) 03:05  〔コメントする〕  削除
 すいません途中で切れました(汗
【つづき】

様々な角度とデータから論証されていて大筋においては説得力がありますし、相当な文章量(サイト全体だと時代小説何十冊分だよってくらい^^;)で、文章も非常に難解なんですが、きっと管理人さんなら興味を惹かれると思いますので、是非チェックされてみてはいかがでしょうか

あと、邪馬台国には誤記問題があって「臺」と「壹」(→転じて「一」)があるわけですが、多分「壹(トゥ)」が可能性が高いんじゃないかと思います
(詳細はコレttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11144928856の受け売りなんですが^^;)

つまり「ヤマタイ国」ではなく「ヤマトゥ国」で、邪馬台国に関しては大和国の発音をそのまま表音したんだろうなと
このヤマトゥという音は実は沖縄の方言に昭和までは残っていました
沖縄人から本土人のことを指す言葉にヤマトゥンチュという語があるんですが、「大和の衆」が転訛したと思われてたわけですが、こうなってくると逆に転訛したのは日本本土の方で、沖縄の方で古代の発音が無菌パッケージされて残ったんじゃないかと

まぁいずれにせよ、あれだけ壱岐だの対馬だの筑紫だの松浦だの伊都だの球磨?だの出てくる中で、本拠の地名が全く後世に残ってないなんてことは考えてみれば不自然な話です

人口が希薄な古代において海洋民国家の日本は、農耕民族的な領域国家ではなく、海洋民族的な都市国家(交易路の中継港)なわけで、日本各地に同名の地名が点在していて九州にもヤマトの地名はあるわけですが、ヤマトゥ国といっても倭と書いてヤマトと読んでた大和政権のことではございません!ってのも無理があるかなと
ここは上記のHPの解釈とは食い違ってるんですけど

RE: 邪馬台国について  投稿者:アマト 投稿日:21.2.11 (木) 09:56  〔コメントする〕  削除
 てるてる様、実は、私も当初は「邪馬台国=機内王朝」説だったのですが、調べていくうちに「邪馬台国=熊本王朝」説に変遷しました。(^^)

理由1.倭の5王が大和王朝歴代天皇に該当しない。
※年記を色々変えて、当て嵌めようとしたのですが無理でした。

理由3.『梁書』倭国伝「齊建元中、除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖即位、進武號征東大將軍。」(斉の建元中(315−316年)、武を持節、督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍に除した。高祖が即位すると、武の号を征東大将軍に進めた。)しかし、『唐会要』倭国・日本国伝では「表仁無綏遠之才。與王爭禮。不宣朝命而還。由是復絶。」(表仁には慎みと遠慮の才覚(外交の才能)がなく、王と礼式で争い、朝命を宣下もせずに帰還した。ここに再び通交が途絶えた。)
※過去に征東大将軍の称号をもらっているのに、些細な礼式で揉めるなんてあり得ません。ここに、王朝断絶が見られます。

理由2.『新唐書』日本伝、「欽明之十一年、直梁承聖元年。次海達。次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。次崇峻。崇峻死、欽明之孫女雄古立。次舒明、次皇極。」(欽明の十一年は、梁の承聖元年(552年)に当たる。次は海達。次は用明、また目多利思比孤といい、隋の開皇末に、初めて中国と通じた。次は崇峻。崇峻か死ぬと、欽明の孫娘の雄古(推古)が立った。次は舒明、次は皇極。)
※次は用明、また目多利思比孤といい、隋の開皇末に、初めて中国と通じた。まあ、初めてだったらしょうがないよねw

RE: 邪馬台国について  投稿者:アマト 投稿日:21.2.11 (木) 09:25  〔コメントする〕  削除
 てるてるさん、こんにちは

>ちょっと見ない間に更にコンテンツ増えてますねΣ(ßДß)

それ、だいぶ見てないと思います(^^)

>【引用始め】
>漢代の1里415mをそれに適用すると、丸都と遼陽の距離は400kmになる。実際の直線距離は260kmだから、山間の曲がった道程を400kmとする事に違和感はない。

反論は『三国志魏書』馬韓伝から
「韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接、方可四千里。」(韓は帯方郡の南に在り、東西は海で尽きる。南に倭と接し、地積は四千里ばかり。)

方可四千里ですよ!南を倭に接し、方可1600kmと絶対無理w
つまり魏書東夷伝は、全部短里だと思います。

>倭人がわざと嘘を魏の使者に教えたとの説を唱えられてます
>それだと日本列島が海上に出ちゃうじゃん!ってなるんですが、それについては、倭人がわざと嘘を魏の使者に教えたとの説を唱えられてます

反論、卑弥呼は魏に援軍を頼んでいる訳ですから、倭が遠いという情報操作をすれば、援軍派遣に不利になります。また、倭への道順は魏の使者が旅しながら直接把握しているようです。

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